死について

同じ病気の子供が簡単に死んでいく。昨日話していたのに、翌日にはもういない。その両親は永遠の悲しみと向き合っていくことになる。死んでくい方は、両親の悲しみから比べたらそんなに大きな悲しみではないはず。先に死んでいくまでの悲しみだけですむ。なんだか冷めた感じに聞こえるかもしれないが、苦しい治療を受けている時に、生きたいなどと考える余裕など私にはなかった。私は何年も何度も死と隣り合わせだったから、正直、死を恐れたりはしなかった。ただ両親がかわいそうだった。自分たちを責める以外、何もできない両親が切なく見えた。私は子供のころからそんな感じだったから、今も死に対する恐怖は全くない。たとえ今日死んでも、今日、余命1ヶ月と宣告されても、、、

今もそう思う。いつ死んでも、後悔しないように生きてるから、死は自然に受け入れるものとこれからもその考えは変わらない。

ついでに死んでからのことを少し考えてみる。

最近のお葬式は、どこかイベントっぽく見えるのは私だけだろうか?

余命宣告を受けている人は、葬式用に自分のビデオをとっている。家族に対してのメッセージ、それを放映して、参列者は涙を流す。故人を偲んで葬儀に参列している人はいいいだろう。故人と話したこともない人も大勢参列しているから、その人達が涙を流すことにとても違和感を感じる。演出に感動しての涙だろう。家族へのメッセージは、家族にだけ伝えれば良いと私は思う。私の家族は一人息子と、戸籍上の妹、夫と夫の子供が二人、そして義母。私が心から大切に思っているの家族は一人息子だけ。一人息子には、私が死んだら、葬式もしなくてもいい、お骨も海にでも流してくれたらいいと伝えている。実際一人息子がそれを実行できるかの自信はないが、私は真剣にそう思っている。手を合わせたい時に手を合わせればいい。私はそう思う。葬式をどうするか心配するなら、もっと精一杯生きればいい。

 

 

小児病棟

私が幼い頃から入院を繰り返していた大学病院はとても大きな病院だった。当時、子供の患者は個室の部屋を使用できなかった。病状がかなり悪化した際に個室へと移動するため、どの様な事情があっても小児病棟の大部屋での入院となった。私の部屋には、ダンプにひかれて片足を失った5歳位の男の子と、鳩を触った時にたまたま傷があった場所から菌が入って片腕を切断した高校生のお姉さん、骨肉手で片足と片手を切断した私の一つ上の男の子がに入院していた。私は骨肉手の男の子ととても仲良くなった。二人が揃って体調が良い時はたまにしかなかったが、その時は病院内を探検して遊んだりしていた。エレベーターに乗って上がったり下がったり、色々な病棟を見て回ったり、入ってはいけない「禁止区域」と書かれている扉内に入ったり、、、とにかく寝たきりが殆どだったので、たまに松葉杖や車いすで遊ぶ時間はとても楽しかった。骨肉手の彼も定期的に抗がん剤治療を散々行っていたので、私達は同じ様な苦しみをともにしてきた感じだった。二人のベットは隣同士でカーテンで仕切られていた。どちらかが体調が悪い時はカーテンが閉められ、二人とも調子良い時はカーテンが開いていた。二人とも、夜中に苦しくて吐く日の方が多く、相手の苦しい状態が分かってしまうのも、とても辛く悲しい時間だった。ダンプにひかれた男の子は数か月で退院していった。この病棟では、交通事故の患者は滅多に入らず、重度の病気の患者が殆どだった。新たに入ってきた患者は、白血病の中学生の男の子だった。この子は、1ヶ月も経たずに亡くなってしまった。私と一緒な病気の子が死んでしまった。両親は泣きじゃくって、先生や看護婦さんに「お願いします、この子を助けてください」と言い続けていた。そんな状況を目の当たりにしながら、どこかで冷静な自分だったかもしれない。

私の生い立ち

パパはハワイを拠点に仕事をしていたので、1ヶ月に1度か2度しか病院にこれなかったが、私の病気が深刻になると、病院に来てくれる回数が各段と増えた。料理が得意だったので、院内の調理スペースを使い、美味しい料理を作ってくれた。病院食は全く口に合わないし、抗がん剤治療の時は食事を摂れないから、パパが作ってくれた料理だけは美味しくて美味しくてしょうがなかった。白血病は約1年で奇蹟的に完治はしたが、その後も入退院を繰り返した。漸く病状が落ちついたのは18歳頃だったと思う。パパは私を色々なところへ連れて行ってくれた。海外も国内も、全部とは言わないが、その辺の添乗員より旅行回数ははるかに多いと思う。ほのぼのとした話に聞こえるが、私はパパを喜ばせようと楽しく振舞っていた。乗り物酔いが酷かったので、移動が苦痛だったが、なぜか正直に伝えられずだった。優しすぎるパパが大好きすぎて、心から甘えることができなかったようにも思う。

ママはパパと少し違って、病状が酷くなると泣いてばかりで、私に「ごめんね、ママが悪いの・・・」とばかり言っていた。結構これが苦痛だったかもしれない。反対に体調の良い時は、学校に行けないという理由もあって、勉強を一生懸命教えてくれた。ママは英語もドイツ語もペラペラで、とても頭の良い人だった。遅れないようにと、1年も2年も先の勉強を教えてくれた。ママが焦っていたこともあってか、勉強の時間は楽しい時間ではなかったと思う。でもそのお陰で、人に遅れることはなかったから感謝もしている。ただ、ママにはよく反発をして困らせた時期も長く続いた。とにかく私の病気のせいで、両親は大変な思いをしてきたのは間違いない。両親が私に家を継いでほしいというのは、私に苦労をさせないためだったのだと思う。とにかく両親に大事にされて私は育ってきた。いつ死ぬかもしれないと思いながら育てらてれたので、普通より少しズレて育ったといってもおかしくはないと思う。

私の生い立ち

不安を抱きながらも彼と彼の娘との時間を重ねるうちに、いつしか彼と結婚するのだろうと思うようにもなっていった。彼が私の家に養子に来る選択肢などないことくらいは分かっていたが、自身の家を継ぐ重さよりも何故か彼のところへお嫁に行くことの方が軽いというか、楽なように感じたのも間違いない。私自身が子供だったのだろう。

私の生い立ちを簡単に・・・

私は幼い頃から体が弱く、入退院を繰り返していた。病院で過ごした期間は二十歳迄に約10年程、手術は7回行った。簡単に説明すると血液の病気。白血病、足の骨がとける、この2つの治療に長い時間を費やしていた。7歳の時に歩き方がおかしいと気づき、パパの友人の病院で治療を開始した。片足を引っ張ったり、義足をつけたり等、今思えば原子的な治療を行っていた。約1年程無駄な治療を行い、全国の大きな病院で検査を続けた。今は紹介状を書いてもらったり、セカンドオピニオン等は普通の考えだが、当時と言えば、検査データを病院同士が共有するなどあり得ない時代だった。東京、大阪、京都、等々有名と言われる病院をかけずりまわった記憶は忘れない。パパはいつも優しく私を包み込むような大きな存在だった。ママは、いつも私が病気になったことを自分のせいだといって謝ったり、泣いたり、悲しんだりしていた時が多かったと思う。病気のせいで、私はいつも周りから特別扱いをされていた。最初の手術は足だった。術後の3ヶ月は寝たきり状態で、漸く車椅子生活になった途端、今度は急性骨髄性白血病になった。この頃の白血病は、助からない確率が高く、ママを見ているだけで自分の病気が深刻だったのは簡単に理解できた。当時も抗ガン剤を用いた強力な化学治療が主体だった。無菌室に入り、とても苦しくい日々が続いた。髪の毛が抜ける悲しさなんていうのは全く感じないほど、生きていること自体が苦しいとしか言いようがなかった。両親の何とも言えない苦しい顔を見て、私自身が色々と我慢をすることを覚えてしまった。苦しいのに苦しいと言えなくなってしまったのはその頃からかもしれない。

彼と私の両親との出会い

彼は私に内緒で私の両親に会いに行った。私は両親に彼のことは全く話をしていなかった。彼がバツイチで子持ちだったから話せなかったのか、彼との年が離れすぎているから言えなかったのか、彼と結婚するということは、家を継がないということになるから、はなから言えなかったのか・・・多分、両親にとってマイナスしかない彼を紹介することなど私にはできなかったのだと思う。

彼は私の両親に、「お嬢さんとお付き合いをさせて頂いています。私はバツイチで子供もいますが、真剣な気持ちで結婚を前提に交際をしていますので、ご挨拶にお伺いいたしました。大切なお嬢さんとこんな私が結婚することを簡単に許してもらえると思ってはいませんが、いつか改めて結婚のお願いにお伺いさせて頂きます。」と。

パパは彼に、「あの子はわがままなのでやめておきなさい。」と一言答えたらしい。ママは、驚いて何も答えられなかったようだ。こんな彼と私の両親とのやりとりがあったことを私は半年後に知った。

彼の家族

間もなく年下の彼には正直な理由を告げて別れることになり、バツ1の彼と付きあうことになった。バツ1の彼は、とにかく毎日毎日会わないと気が済まないという勢いだっので、私も彼のそんなペースに巻き込まれ、合わせるようになってしまった。彼は長男で子供を一人引き取り、両親と4人暮らしをしていた。子供は長女で小学6年生、とてもかわいい女の子だった。そのうち子供を含めて3人で会う機会も増え、子供はどんどん私になついていった。もう一人の子供は女の子で、別れた前妻と暮らしていた。彼の両親はといえば、いつも不機嫌な表情をしていた。挨拶をしてもろくに返事もしない感じで、目つきもとても悪く、とにかく悪い印象しかなかった。バツ1の子持ち、両親は怖くて、私は少しずつ不安を抱くようになってきた。

年下の彼

彼との出会いは知人を通してだった。私が友人と食事をしていた際、その知人が彼と同じ店で食事をしていた。私は知人に声を掛けられ、その日は挨拶程度で別れたが、数日後に知人を介して彼から連絡が入った。食事に何度も誘われるようになり、彼と少しずつ近くなっていった。

彼と出会った当時、私は付きあって2年の年下の優しい彼氏がいた。彼には何の不満もなかった。彼は私をお姫様のように大切に大切にしてくれた。今思うと、若いあの頃にはそれが普通だと勘違いしてしまったのだと思う。ただ1点、彼は一人っ子だったので、私の母は彼との交際に反対していた。私も一人っ子、正確に言うと妹がいるが、妹は父の妹の子供で、幼い頃に特別養子縁組をしているので、実質両親の実子は私だけであった。物心ついた時から母親には、私が家を継がなければいけないというようなことを言われ続けていた。どこかでその母親の言葉は、私にとってうっとおしいものになっていった。

彼との出会い

私は生まれも育ちも三重。私の彼は年上のバツ1、2人の子連れだった。

彼は、今まで私が出会ったことのない男性だった。今まで出会ったことのない彼に魅かれたと錯覚したことに気付くのは、そんなに遅くはなかった。彼は毎日連絡をしてくる人で、デートもほぼ毎日だった。すごく汚い焼肉屋さんや食堂にも構わず私を連れていった。私は潔癖症で、汚いことに関しては全てが苦痛だった。人の唾液も勿論その部類に入る。手を繋ぐことも嫌いだし、体がくっつくことにも抵抗があった。食べ物をシェアしたり、一つのグラスで飲み物を一緒に飲むなんて考えられなかった。こんな潔癖症を理解してくれる男性というより、仕方なくでも手を繋いだりキスをしたりが大丈夫な男性でなければ私は無理だった。でも好きになったら私も手を繋ぎたいしキスもしたいという気持ちはあった。ただ、そのあと直ぐに手を洗ったり口を濯いだり歯を磨いたりしなければ、落ち着かなかった。私が人と違うのは個性というより、生い立ちに関係する。この潔癖症は一生治らないと自信をもっていたが、最終的には治ることになる。